フランシスコ・ラザロ



フランシスコ・ラザロ(Francisco Lazaro 1891年1月21日生)
 [ポルトガル・陸上競技選手]


 ラザロは、ポルトガルで有数の長距離選手であり、すでに1910年のリスボンマラソンを始めとして国内のマラソンで3回の優勝経験があった。彼はポルトガルの選手としては初めてオリンピックマラソン競技の代表としてストックホルムオリンピックに出場することになり、オリンピックの開会式では旗手を務めている。

 ストックホルムオリンピックのマラソン競技は、19カ国から68人の選手が出場して1920年7月14日に開催された。この日は気温が40度に達し、日陰でも32度を計測するという記録的な暑さで、選手のうちほぼ半数の33名が途中棄権する事態となった。ラザロは、30キロ過ぎの給水所を越えてゴールまであと8キロを残した地点で倒れて意識を失った。彼が倒れたという知らせはすぐに伝えられて、当番の医者が駆けつけた。倒れてから約1時間半後に、彼は病院に搬送されて夜通しの治療を受けたが、体温は42.1度という高温になっており、意識が戻ることはなく、その翌朝6時に死去した。

 ラザロの死因については、競技実施日の記録的な暑さによる深刻な脱水症状によるものと推定された。なお、彼は殆どの選手が日除けの帽子を被っていた中で帽子を被っていない選手の一人だった。後にラザロは、日焼けと過度の発汗を防止するために、体の表面の大部分にワックスを塗布していたことが判明した。だが、このワックスの油分が水を弾いて自然な発汗までも妨げたために、重篤な体内における電解質の不均衡を引き起こす結果になったのだった。

 ラザロの訃報は、他の選手たちや世間の人々に衝撃を与えた。この事態を受けて、当時の国際オリンピック委員会会長だったピエール・ド・クーベルタンは、ラザロの遺族に哀悼の意を表した。オリンピックの終了後、メインスタジアムでは追悼の音楽会が催され、23000人の人々が参列した。音楽会での収益は、彼の遺族に贈られた。故国ポルトガルで執り行われた彼の葬儀には、数千人の人々が参列したという。

 1912年7月15日死去(享年21)


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