湯口敏彦



湯口敏彦(ゆぐちとしひこ 1952年6月3日生)
 [プロ野球選手]


 岐阜県生まれ。岐阜短期大学付属高等学校のエースとして1970年春と夏の甲子園に出場。春はベスト8、夏はベスト4まで勝ち上がった。また、高校時代にノーヒットノーランを3回達成した。

 同年秋のドラフトで、読売ジャイアンツに1位で指名され、翌1971年に入団。しかし1971年、1972年と一軍での登板はなし。

 1972年11月23日に行われたファン感謝デーの紅白戦でリリーフ登板するが、前日に参加した無礼講の飲み会の余韻のせいか(自分の登板は無いものと考え、大量の酒を痛飲していた)、1アウトも取れずに打ち込まれ、川上哲治監督、中尾碩志二軍監督から厳しい叱責を受けたと言われている。更に、この日は合宿所に帰らず、翌日戻ったときにその中尾から拳骨を食らう。これによって精神的に大打撃を受け、11月27日に行われた納会では話しかけられても反応しない、視点が定まらないなど、明らかな体の変調を見せる。翌日、チーム担当の医師からうつ病と診断され、その後2度の入退院を繰り返した。しばしば「川上監督に申し訳ないことをした」と紅白戦のことを思い出しては悔やんでいたという。

 翌1973年初めに病状が改善し、同年2月に宮崎県都城で行われた2軍キャンプに参加(これはマスコミを警戒した球団側の意向もあったといわれている)。しかし、キャンプ初日にチームメイトが話しかけても反応しない、夜中に大声を上げるなど、再び精神的な異変が現れたため、翌日には監督から参加禁止を言い渡され、東京への帰還を命じられる。到着直後の羽田空港内で症状が悪化したため都内の精神科病院に再入院し、治療を受けていたが同年3月22日に病院のベッドで変死体となって発見された。

 死因は心臓麻痺と発表された。しかし、前日までは元気だった湯口が死去したのは不自然であり、誰もが「自殺ではないのか?」と怪訝な目で見ていたという。

 これをきっかけに、当時の川上哲治監督はもとより、球団全体へのバッシングに発展した。川上監督は死去の際声明を発表したが、この時「巨人こそ大被害を受けましたよ。大金を投じ年月をかけて愛情を注いだ選手なんですから。せめてもの救いは、女性を乗せての交通事故でなかった事です」と発言した。この川上監督の発言が決定打となり、巨人はマスコミから激しいバッシング報道を受けた。

 週刊ポストは湯口の急死を「事件」と報じ、死から約2週間後「巨人軍・湯口敏彦投手の死は自殺だった」という特集記事を掲載。湯口の父親の手記まで登場させるなどバッシング報道を展開した。これに報知新聞以外のスポーツ新聞・週刊誌も追随したため、スポーツマスコミのほぼ全体から非難を受けることになった。

 イメージ低下した巨人は1973年のドラフト会議で7人の選手を指名するが、1位の小林秀一、2位の黒坂幸夫、3位の中村裕二、5位の尾西和夫の4人が入団拒否し、入団したのは3人だけだった。拒否した4人のうち3人がドラフトの上位指名1位から3位であった事からマスコミは「天罰だ」と騒ぎ立てた。

 1973年3月22日死去(享年20)


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