藤村操



藤村操(ふじむらみさお 1886年7月生)
 [第一高等学校生徒]


 北海道出身。祖父の藤村政徳は盛岡藩士であった。父の藤村胖は明治維新後、北海道に渡り、事業家として成功する。操は、1886年に北海道で胖の長男として生まれ、12歳の札幌中学入学直後まで北海道で過ごした。この間の1899年に胖が死去している。その後、東京へ移り、京北中学を経て第一高等学校に入学した。

 1903年5月22日、日光の華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」(がんとうのかん)を書き残して自殺。厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名にのぼった。華厳の滝がいまだに自殺の名所として知られるのは、操の死ゆえである。

 墓所は東京都港区の青山霊園。藤村が遺書を記したミズナラの木は、警察により伐採されたという。しかし、それを撮影した写真が現存し、現在でも華厳の滝でお土産として販売されている。

 彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石の精神にも大きな打撃を与えた。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、うつ病となった一因とも言われる。

 自殺直後は、遺書「巌頭之感」の影響もあって、藤村は哲学的な悩みによって自殺をしたものと推測された。今日でもこのように考える者は多い。しかし、自殺の前に藤村が失恋していたことが明らかになり、これを自殺の原因と考える者もいる。恋慕の相手は、菊池大麓の長女多美子である。なお、藤村の自殺の年に多美子は美濃部達吉と結婚した。また、自殺ではなく自決だとの考えもあり、自らの命を軽んずる自殺とは違い、恥の文化による武士道精神に則った行動との解釈も存在する。事実、藤村の死は日露戦争を前に、巨大な西洋文明に対峙し、足下をゆるがされていた多くの知識人を大いに勇気づけた。

 遺書内容→コチラ

 1903年5月22日死去(享年16)


<<重要なお知らせ>>

@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
@peps!・Chip!!は、2024年5月末をもってサービスを終了させていただきます。
詳しくは
@peps!サービス終了のお知らせ
Chip!!サービス終了のお知らせ
をご確認ください。



w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
無料ホムペ素材も超充実ァ